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来住館長の指導で、美術館周辺の林から小枝を集めて、
いろいろな生物のオブジェを制作した。参加者の作品は 持ち帰ったようです。 美術館のエントランスにマッチしている作品。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() # by kafkazin | 2012-05-09 10:48
自治基本条例検討委員会に参加しているから、
市民の定義について考えている。 8月に市民病院のエントランスホール、ギャラリーで 個展を開催する予定なので、テーマを考えている。 読んでいない本が沢山、書棚に並んでいる。 観たい映画のDVDを借りて来なくては。 矢筈山に登ってみたいが大丈夫だろうか。 とりあえず今日はここまで。 # by kafkazin | 2012-05-08 21:36
来住史記
「来住」という地名と姓名の関係について小説を書きたいと思って数年になる。 「来住」を「きし」と読める人は、少ないことだろう。「くるすみ」「くるすむ」 「きすみ」「きすむ」、これはないだろうが「らいじゅう」と読めないことはな い。「来住」は姓で、つまり苗字なのである。私の住む町「西脇市」の電話帳に は49軒の名前が並んでいる。隣の隣町の小野市に「来住町」の地名がある。 そこには風光明媚な山麓に「小野ゴルフ倶楽部」と「鴨池」があって、貸しボ ートが浮かんでいる。この「来住町」にも小野市にも、来住姓が電話帳に一人 もない。この町の名前「来住」は「きし」と読むのである。この来住町と西脇 市の来住姓と何らかの繋がりがあるのではなかろうか、と思って数年になる。 この小野市下来住町に「コミュニティセンターきすみの」の建物があり、コ ミセンきすみのだより『伎須美野』を毎月発行している。平成23年5月号に よれば、来住地区の世帯数は1225、人口は男1622人、女1788人。 田園風景の中に鋸工場があり、いくつかの集落があるものの商店のない住宅地 域である。春日神社があるも、墓地は見えない、バス停がある。西は鴨池であ るが、東にはJR加古川線と平行して北から南へ加古川が流れている。近くに来 住小学校があり、川の東には小野南中学校がある。 かつて、来住村と言われた江戸時代に自然災害があり、耕作地が激減したこ とがあったのではないかと推察する。そのために多くの次男、三男など農地を 相続出来なかった若者たちが、藩主の許可を得て、未開拓地へ移住したのでは ないだろうか。加古川の上流に杉原川と野間川が流れ込む水利豊かな地が津万 郷の西脇にあり、彼らの開拓によって西脇村が誕生した。水利が良い土地は時 によって五穀豊穣をもたらすが、水害をも経験したにちがいない。地域の上に は「豊川神社」を、下には「川下神社」を建立した。 開拓農民は、数々の苦難を乗り越えて、やがて水路の建設、耕地区画整理事 業にも取り組み、村の北にある小さな山を童子山と名付け、その山麓に住居を 構えた。彼等自身が移住開拓民であったからだろうか、周辺地域からの人々を 暖かく受け入れたようで、農林業だけでなく「衣、食」の産業にも取り組み地 場産業を発展させた。例えば、織物の縞柄など、織機の改良にともない染色技 術も向上し「播州織」というブランドになった。染色は河川が近く質量に恵ま れ、いち早く近代化を図り、釣り針製造と共に地場産業となったのである。 明治3年(1870)に至って、平民に苗字が許された。 加古川を北上して「西脇村」を形成した人たち、その子孫は故郷を誇りに思 い懐かしみ、苦難を乗り越えた「来住村」の人々は何の躊躇いもなく、揃って 苗字を「来住」とした。「来住」村から西脇へきた人たちは被災した「来住」村 を捨てたのではなく、口減らしの犠牲者でもなく、未知の原野開拓を目指し北 上して来た希望と勇気の持ち主であったと思われる。 彼等は開拓地を与えられると信じて故郷を離れたのだが、来てみると、すで に先住民によって開墾された地域で、住む場所も開墾する土地もなかったのか も知れない。彼等は小作人として雇われ「水呑百姓」の存在にすぎなかったこ とも想像される。したがって農業以外の技術で生計をたてようとして、商工業 者の道を模索したのではないだろうか。木綿の栽培に活路を見出したのかも知 れない。創意と真摯な努力によって彼等も明治という日本を構築したのである。 織物産元業者、染色工場、織物工場、その他関連事業の経営。食料品卸、小売 業。飲食店の経営、いろいろな近代産業が誕生し発展する。 加古川を農業用水だけでなく、物資の運搬水路としての史実をふまえれば、 北部には豊富な林業があり、当然ながら筏の川下りがあり、生活用品の運搬の ため船の往来があった。水辺に暮らす人々の歴史には興味深いものがある。 「 赤松勘五良景量(カゲカズ)と言う名を兼村九左衛門に改め生活のため、 剣術の指導をしていたが貧乏であった。加古川の舟運を考え、材木屋となり筏 乗りとなった。後に千石船を購入し大阪方面まで材木を運んだ。或時海上で風 波にあい溺死せんとした漁師を救けた関係で、来住村に居住の赤松仁兵衛と親 しくなり、昔は親戚であった事が判明し「来住姓」の氏と兼定の銘刀添書もら い又改名し来住勘五郎景量。三代兼村儀兵衛は加古川の水量が減少し千石船が 不通となったので又筏に乗り縞の輸送をしていたが、来住村で幼児が溺れてい るのを発見救助。この親が赤松次郎親次で二回までもの奇縁を喜び合い兼村を 改め来住姓を用いるようになり、来住儀兵衛と改め、木綿を商う様にすすめら れた。儀兵衛は大いに喜び木綿の売買を以て利益をあげ家運は日々盛大となり 木綿屋と号した。寛政三年(1791)三月十日義兵衛は八十九才で永眠。」 赤松勘五良景量(初代、兼村九左衛門)改め来住勘五良—2代、兼村小左衛門— 3代、兼村儀兵衛—改名来住儀兵衛(木綿屋)—4代、儀兵衛—5代、儀兵衛— 6代、源兵衛—7代、源兵衛ー8代、勇二郎—9代目梅華が生花の大師範。」 「播磨タイムス」第641号 昭和42年5月21日 抜粋引用 # by kafkazin | 2011-05-04 19:54
梅暦(ばいれき) 来住定治郎知之 寸松園梅暦
播州織の産元機屋と染め屋を総合的に経営し産元商社の元祖となった豪商。 京都の文化を西脇に紹介した勤王派の文化人。 村上源姓の大納言季房は嘉応元年五月 京から播磨赤穂郡白旗城に移り 赤松氏となり、子孫に赤松景俊 兄景治 弟景量で加東郡来住に移り 来住と改姓。寛永19年(1642)。—来住勘五良景量(カゲカズ)同人元名 (兼村九左衛門)—小左衛門—新六—二男元七—治兵衛—定治郎(梅暦) 来住定治郎(梅暦)—岩松—兄幾太郎—健造— 梅暦 門下生に来住万芳 名声高く四方の士と交わり結んだ。 国学俳諧、京都二条城の執事、播州織物の産元商社として販路拡張。 勤王派に利用され献金、融通したため財産を失った。 文化十年(1813)生まれ。 飛田安兵衛 寛政四年(1792)播州織創始 文化十三年(1816)没。 梅暦 文政三年(1820)8才 高松山宝光院に浸水、大洪水 文政十年(1827)15才 比延の古谷翁が二条城で発句会に伺候。 文政十一年16才 頼山陽が津万井の石井徳三郎宅に。 天保六年 23才 来住重耳翁が萩瀬所縁の松の辞を書く。 天保九年 26才 西脇庄屋徳岡利兵衛が永代橋を新設計画、 この時、世話人として、京都方面の寄付金集めに努力した。 (この橋は明治15年12月に蓬莱橋と改名。) 安政元年(嘉永7年)42才 京都の御所が焼失。坂本西林寺で 藤田石崖の追悼句会 選句の額を古谷翁と奉納。 「雨に似た雲山落つる芭蕉かな」 安政2年(1855)43才 農民に田畑で綿をつくらせ糸をつむぐ。 滝野川の水で染め木綿縞にして京の花の市で販売、商社で儲けた金は勤 王の志士に貸し付け借用証書が山と積まれた。 文久元年(1861)49才死亡、辞世「川音に消え行く声や朝千鳥」 岩松 長男6才、貸付金の取り立ても不能、13才で母を失い苦労艱難。 「詩を作るより田を作れ」と嘆いた。 「播磨タイムス」第638号」 昭和42年4月21号 抜粋引用 # by kafkazin | 2011-05-04 19:35
緑を求めての旅 2
印度はラダックとラージャスタンの旅を終えて帰国すると、緑なす日本の小さな島国が愛おしく、心身ともに安らぎを覚えた。それは、さらに山奥のふるさとの風景に体を横たえたからであろう。 レーの夜ウィスキーを少し口にして、翌朝の頭痛やら体調不良もあったが、 幸いにも軽微にして旅を続けられた。ラダックへの往復した山岳地帯の軍用道路だけでも旅して良かった、と思う。 焦熱のジャイサルメールではあったが、振り返るごとに永住したいとの願いが日々募っていったのは何故なのか。 五回連続の印度旅行を終えて、五十歳になった私は、ヒンズー教の神々に食傷気味であったせいもあり、イスラムと言っても何もわからなかったが、西隣のパキスタンへ向かった。モヘンジヨダロの古代文明と仏教のガンダーラ文化に関心があったからである。 東西文化の交流の歴史を俯瞰する能力はないが、興味深いテーマであった。 ヘレニズムと仏教、キリスト教が東方へ布教される中継点でもある印度には、 ユダヤ教の教会もある。ゾロアスター教、シーク教、ジャイナ教、そしてムガール帝国のモスクも現存している。ヒンズー教との諍いがあることも事実であるがイスラムとの葛藤は、ついにいずれも核兵器を持つに至った。 宗教は本来、神、仏を崇めるにせよ、人が人を愛し、幸せなることを願うものである。ところが人は善悪をつくり、対立する。ここに生まれなければならない信頼、相互理解、寛容の精神が失われて行く。これは宗教が持つ排他、排斥する理論武装によるものであろうか。私は、やはり宗教は人間が創造した産物の宿命であると思考しているが、それとも民族の対立からくるものなのか。 宗教は人間が作ったものである。人間の生命そのものである。愛するが憎しみもする。人を慈しみもするが殺戮をも行う。人は歓喜もするが地獄の苦悩に落ちる。欲望の赴くままに妬み、奪い、怒り狂う。人は自ら敬う神の名において敵の神を破壊し尽くそうとする。この歴史は事実が証明している。 人間が神仏を創造した。何故、神仏を創造したのであろうか。不幸の原因を人間の誕生における原罪にあり、その懺悔によって人間は救済されるとした。 悔い改めて神の恩寵である幸せを得られるか。 神に許しを乞う人間の怯懦なことを思い、神をも怖れぬ残虐非道な行為には人間の残虐、非道なことに嘔吐する。ここには愛、慈悲、真理も存在しない。 神は何の力も持たない。「神は死んだ」のである。人が人を信ずる世界をつくるには対話でしかない。人を殺して何が解決できるのか。 歴史から学ぶことだ。核兵器を作り保持する、愚かな人間がいる世界に絶望してはならない。戦争から何も生まれない、憎悪と不幸のみが現出する。平和を希求する無限のエネルギーを要する今日である。 人は人を信ずるに値する存在でなければならない。 人には様々な人がいる、十人十色である。それらを理解した上で忍耐強く対話を続行すること。お互いがお互いを対等な立場であることを認識し、相互に信頼と尊重を土台にして、寛容と理解をもって対話を続けよう。人類は運命共同体の一員であること、戦争は悲惨であり残酷であること、平和であることが人類の繁栄と幸福を創造する源泉であることを語り合おう。 歴史が我々を応援してくれるにちがいない。 印度から離れる近道はパキスタン、と思って選んだ。確かにカシミール辺りが国境を曖昧になるような民族の諍いが燻り続けていたように思う。ヒンズーとイスラムが対立していた。印度が核兵器をもった途端、パキスタンも核兵器を保持した。ソビエトと印度、中国とパキスタンといった構図が生まれた。 印度のデリー国立博物館を一人で、最後の一日を過ごした。ある部屋の一角にモヘンジョダロの遺跡から、発掘発見された遺物が展示されていた。その中に幼児の玩具と思えるような土偶があった。動物、人間、生活用具などの小さな粘土細工が並べてあった。日だまりの暖かな一隅に魅せられていた。 日干し煉瓦を積み重ねて家屋が建って、都市を構成した紀元前の姿が発掘されていた。日干し煉瓦を作るために、周辺の森林が伐採され、乾燥した大地に作物は実らず、自然破壊が人々の生活を破滅に至らしめた。 環境破壊が人類を破滅させた遺跡として、「消えた文明遺産」の代表でもあったが、その現地で見たものは、水のない木浴場であり、見渡す限り日干し煉瓦を積み上げた壁の連続、迷路であった。都市の周りには灌木の岡があったが、「死者の町」そのものであり、一人で歩き、入り口に辿り着いた私は、脱水症状を起こしたように、木陰に倒れた。 ここでパキスタンの観光旅行ガイドを記そうとしているのではない。いくつか記憶にある断片を記すことにとどめたい。仏教遺跡の保存には政府も力をいれていた。というのは小さな彫像をはぎ取って密売、密出国する輩がいたのだ。 ある遺跡では番人である男が小さな仏頭を見せて、売りつけようとした。偽物であったかも知れないが・・・・・。 ある遺跡の場所では銃を持った二人の兵らしき番人が私たちを見張っていた。 遺跡の土台に手を触れた人がいた、途端に大声で叱責が飛んで来た。石ころ一つも持ち出せない緊張感が走った。監視する男たちの厳しいまなざしが光った。 美術館には等身大の仏菩薩の彫像が立ち並んでいた。あの断食をする釈迦像も見られた。肋骨が浮き出るほどに苦行する釈迦の窪んだ眼の写実表現には圧倒される、ガンダーラにはギリシアの彫像文化が確実に存在したのである。 このパキスタン旅行の添乗員は若い女性であった。体調を崩して食欲を失った夜、白米のお粥に梅干しを添えて部屋に持ってきてくれたことを思い出す。 どの地域での夜であったか、レストランで私の誕生日であることを発表して、この地域の男性が被っているフェルトの帽子をプレゼントされた。 地名は記憶にないが、数人の子どもたちが地面に線を描きゲームをしていたのを覚えている。その村の中心通りで、いろいろな売店も並んでいたが、何かの製造、修理の仕事場もあった。小さなバラックの中にハンマーでもって金属製品を加工している男の写真を撮った。近くに立っていた幼児の父親と判断して、持っていたキャンデイを渡すと、二人に笑顔が広がった。 カメラもまだオートフォーカスでなく、フィルムも手で巻いていた。暗い仕事場の若い父親の瞳にピントを合わすのに苦心したことを思い出す。モノクロフィルムを使用していた。 パキスタンでは、いくつか有名な仏教遺跡を訪ねた。釈迦が修行をした場所ではなく、仏像が誕生する過程の遺跡でガンダーラ仏教の地域であった。私は迂闊にも中東アジアの政治情勢に無知であり、無関心であった。グループの人たちがカイバル峠を見たいと言った時も、危険であるから近くまで行けない、と許可が下りなかった時も、事情、理由について知らなかった。 許可が下りた地点まで行った。現地ガイドの紹介で、ある部族の要塞のような建物に入った。その帰途停車しておりた場所から眺めた荒野に、アフガニスタンからの難民テント村がはるか彼方まで密集していた。バスを見て出て来た難民に何をするでもなく、呆然とお互いに見詰め合っていた。 難民と記したが、何故難民が存在するのか、いまもって知らない。世界に数百万人の難民がいる、その救済に国連が関わっていることを知ったのも最近だ。 我が国は難民鎖国と聞く、世界の難民を受け入れていない? 私たちはカラチに帰ってきた。冬の海岸は風が冷たかった。鎖で繋いだ大きな熊を連れて浜辺を歩いている男たちがいた。カメラを向けるなと注意された。 観光客に写真を撮らせて稼いでいる人たちだった。ガイドが通訳をしてくれておれば料金を支払って、写真を撮ったにちがいない。 1986年、50歳になった私はスペイン、モロッコに向かった。この旅も紀行を書く予定であるが、メモ書きは数回書いている。書き出せばとどまらないので、二つだけここでも記しておきたいことがある。スペインはマドリッドのプラド美術館を出て、添乗員の許可を得て別館に数人で行った。 ピカソの「ゲルニカ」を観た。防弾ガラスで守られていた。 ポルトガルにも一泊した。大陸の果てるところ、海の始まるところの最西端のロカ岬にいった。海峡を渡り、モロッコは中世の町を歩いた。 1990年、河西回廊、天山北路の旅、上海から敦煌を経て、ウルムチ、トルファンまでシルクロードの旅をした。上海の建築ラッシュを眺めた。 1992年、西トルコを回った。東西文化の十字路である。私は56歳、60歳になれば、ジャイサルメールに永住する準備を考えていた。あの美しい砂漠の城塞都市に住むことを夢見て、家族の生活を考えながら準備をしていた。ところで、私は彼の地で何をしたいのか、することがあるのだろうか、自分に 何が出来るのだろうか。 あの町に日本の文化を紹介するのはどうだろうか。 私に、その能力があるか、特技を身につけておく。 何かを教えるなど出来ない、学びに行こう。 360度地平線の砂漠に、あの弾けるような笑顔と逞しさ。 ゴミの落ちていない町、美しい衣装を纏う女性たち。 私は夢見ていた。西方十万億の彼方に極楽浄土を。 創価大学法学部に入学した、通信教育である。 レポートの作成、地方スクーリングの受講、科目試験。 1996年3月、還暦で卒業。妻と二人でニューヨークへ。 翌年1997年、日本語教育要請講座、地域づくりリーダー講義を受講。 妻に私が永住するジャイサルメールを見せることと、私が死んだ時に荼毘にふすためにこられるようにするために、二人で印度に出かけた。 日本の旅行社に全ての手配を依頼した。デリー空港に日本語の出来る壮年のガイドが待っていてくれた。前回はマイクロバスでラダックとラージャスタンを回遊したが、今回はデリーからジョドプールまで飛行機であった。時間があったので観光も出来た。ホテルにはバンガローがいくつも建っていた。翌朝、ガイドが手配していた普通乗用車に乗り込んで出発した。 この旅について、書き記すことは難しい、要点のみにしておきたい。 曠野にある小さなレストランで昼食をとる。そして砂漠をひたすら西に向かって走る。はるか彼方に灰色の塊が見えてきた。あれがジャイサルメールだと妻に知らせた。ガイドが私の顔を怪訝な目で見た。私が二度目の旅であり、旅の目的や理由も知らないでいるのだ。 町に入った、ホテルに向かう。ナラヤン・ニワス・パレス高級ホテル。 レストランはヴァイキング料理、飲み物、舞台では音楽演奏と踊り。妻は車酔いか体調悪くベッドにいる。翌朝市内観光、牛が放置され糞尿で汚れた道路。 店先で仕事をしている人もいるが、若者がぶらぶらしている。仕事がないのか。 急に腹痛でガイドにトイレを探してもらう。真っ暗のトイレ、下痢だった。 妻も疲れているようなので、観光を止めてホテルに帰る。回復を待つ。夕刻、 ガイドへ電話をして夕陽の美しいサンセットポイントへ車を回してもらった。 町にもいたが、ここでも赤子を抱いた女が乞食をしている。凧を揚げている青年たちがいて、糸を観光客の帽子に引っ掛けるなど、いたずらをしている。彼らの嬌声が風景を破壊していた。 翌朝、聖池のほとりで楽器を演奏する老人がいた。近くに制服を着た小学生が二人いて、学校へ行かないで、この盲楽師にいたずらをしている。彼らが立ち去ってから、彼の手にルピー紙幣を握らせ、写真を撮った。彼は音楽を演奏した。ここへ水を汲みにくる女性たちがいなかったので、町に戻って、近くの住人に14年前に撮影した写真を見せて、知っている人には本人に届けてくれるよう依頼した。残ったのは、女子中学生たちの写真であった。 学校を訪ねて、教務員室で教員に写真を見せたが知っている人はいなかった。学校が間違っているのか、場所の記憶違いなのか、わからなかったが教員が探してみると言ってくれたので写真を渡した。 近くの教室を案内してもらって、妻が折り紙を生徒20人ぐらいに配り、折り鶴を教えた。始めてであったようで、みんな大喜びの歓声をあげた。 『地球の歩き方』97〜98版インドの322ページに「警告!悪徳キャメル・サファリが横行の記事がある。ジャイサルメールは観光俗化した、と思う。 帰国した私は思い知った。西方十万億の彼方に極楽浄土は存在しなかった。 「水を求めるなら足下を掘れ」である。私は慶応義塾大学文学部に学士入学し哲学を学ぶことにした。通信教育であったが夏期スクーリング3週間、3年間 通学した。日吉に2週間、三田に1週間学んだ。レポートを書いては科目試験を受けた。5年間在籍したが卒業出来ず中途退学した。 この5年の間に、ニューヨーク、イラン、韓国、タイ、カンボジアとは妻と旅をした。 2006年、古希となりイタリアを一人で2週間旅した。 わが町も市町村合併した。市民応募して「総合計画策定市民会議」に参加。 20人足らずのメンバーではあったが、ワークショップを通じて友人が出来た。 「まちづくり」について学んだ。また積極的に参加するようになった。「総合計画推進市民会議」にも参加しているが、少子高齢化社会であるというものの、 73歳になった今日、さまざまな思いが錯綜する。 山河風光 文化創造の町 を願って生き抜きたい。 若い緑を育てよう! 2009、10、1 水を求める旅 1
30歳の中頃、友人とヨーロッパツアーを申し込み、南回りで出かけた。 タイのバンコク、パキスタンのカラチを経て、エジプト、ギリシャ、イタリア、フランス、スイスと回った。その翌年、グアテマラ、メキシコへマヤ文明遺跡巡りをした。いままでに丁度、20カ国を旅している。 韓国、フィリピンへ誘われたが何故か近隣諸国には興味が沸かなかった。 いまもってしてもわからないのだが、ふいと印度へ行こうと思った。「お釈迦さん」「仏教」とかを意識していなかった。事実、仏教遺跡というか、釈迦の足跡を訪ねる旅はしていない。ヒンズー教についても知識がなく、印度と言えば、ガンジーとネルー。バラモンと不可触民「カースト」の言葉が頭に浮かぶ私であった。 パスポートを開けて調べればわかることだが、45歳から毎年一回、5年続けて印度を旅した。香港、ネパール、タイに一泊した旅もある。印度への飛行機は首都のデリー、東部のコルカタ(カルカッタ)の空港に着陸した。 空港はカレーの匂いがした、香辛料の香りが漂い、夜空を眺めると半弦の月が輝いていた。ターミナルで入国手続きが済んで待合室に入ると、現地ガイドから歓迎のレイをかけられる。その花はマリーゴールドであった。私たちのトランクがバスの上に積まれている横には、白い牛が数等横たわっていた。 一回目のインドはカルカッタから始まったことが良かったと思う。夜行列車でバラナシ(ベナレス)へ向かった。添乗員を見失う、ガイドのバッグ盗難とハプニングの連続。4人ずつのコンパーとメントの客車で会話が弾んだ。二十歳の女性は静岡県出身で将来旅行社勤務希望、NTT勤務の社員はローンを組んで初の海外旅行、もう一人の青年は東北なまりであった。 欧米でなくて何故インドなのか、熱く語る若い彼らが羨ましかった。 NTTが技術革新によって、とてつもない会社に変貌する日が近いことを教えられた。若い女性は一人で放浪の旅を続けるようになる。列車の連結通路が通れなくて、次の停車駅で添乗員が無事に乗り込んで来た。ハウラー駅の雑踏の中、日本人新婚夫婦の乗車案内をしていたとのこと。 私の初印度旅行も喧噪と雑踏のカルカッタからベナレスへの夜行列車から始まった。鬱病はガンジスの木造の手漕ぎ船にあたる波の音を耳にして静まっていた。バラタナッチャムの舞姫が舞台芸術で欧米その他の観光客を魅了した。 初の旅行で印度に取り憑かれる人と二度と足を向けない人とに分別されると言う話を耳にした。印度に到着する空港が何処であれ、町に入っていくと途端にバスの窓を閉めて欲しいと添乗員に告げる人がいる。窓からの風、空気の匂いが耐えられないのだ。嘔吐する人がいると悲惨な旅となる。 アグラの朝、いよいよ世界遺産のタージマハル観光である。少し温度が低いのに薄着であったせいか、それともバス内の冷房の風を受けていたからか、悪寒に襲われた。体温が調整されずにいる「自律神経失調症」に落ち込んだのだ。 白亜の廟が見える所まで歩けないかと聞かれたが、動かないことにした。バス内には運転手が音楽を聴き始めた。そのメロディが神経にさわるので、音量をさげてもらい、毛布をかぶって横になった。 その翌年、タージマハルで履物番のイスラム老人の笑顔を撮って、市展で特選になった。数年後、個展の案内状に使用した。ホテル前に客待ちをしていた青年のリキシャマンたちの写真を撮ったが、写真を送るにも住所の書ける人がいなかったので名刺を渡しておいた。忘れた頃に手紙が届き文通が始まった。 さらにその翌年、つまり三度目のアグラであった。指定された力車スタンドにホテルの名前を知らせたところ、その夜、力車マンの兄弟が訪ねてきた。そして、自宅へ来て欲しいと言うので、暗い夜道を兄が運転し、弟が後ろから押すようにして走った。小さな集落の広場に到着した。そこには多くのリキシャがあったので、これもカーストの世界かなと思った。 彼らに土産としてトランクに詰め込んでいた古着その他の袋を二つ渡した。 レンガ作りの家、木の扉を開けると暗い部屋に、いくつかのベッドがあった。そこに私を座らせ、彼らは土間に座った。母親がチャイとケーキを持って来た。 私の分しかないので手をつけずにいると、弟が言った。あなたはゲストである。 ノープロブレム。プリーズ、ルック、ピクチャー。指差した薄暗い壁に小さな額縁の中に、私の写真と手紙が入っていた。会話が続かないので、彼らに映画の歌を歌ってくれるように頼むと、静かに歌ってくれた。その間に、私は甘過るチャイとケーキに手をつけた。 やがて、ホテルに帰りたいと言うと、弟が送ってくれることになった。私は今でも思うのだが、添乗員が外出を承知してくれたこと。ホテルに帰って来るまで心配したであろうことを。彼らは本当に兄弟であったのだろうか。額入りの写真や手紙は、世界各地の人たちのものを持っているのではないか。 私の辿々しい英語が通じたこと、また弟と称する男の英語が聞き取れたこと、深夜のリキシャマンにひとかけらの不安も恐怖も生じなかったことがなつかしく思い出される。弟がリキシャで走りながら、スペイン語を勉強している、来年にはガイドの資格を取ると言った。兄が来月、結婚するのだが祝って欲しい。 私は半信半疑ながらもお祝いのことは考えておく、ところで映画でヒットしている歌のカセットを明日届けてくれ、タージマハルで会う約束をした。翌日、彼らは友人たちといたが、走りよってくるとカセットテープを差し出した。私もホテルの封筒に幾ばくかのルピーを入れて渡した。彼らは私が贈り物にした古着のジーンズやセーターを身につけて喜んでいた。弟が最後に言った。もしもアグラで困ったことがあれば、兄貴の名前を出すといい、ノープロブレム。 初の印度旅行では、デリーの大統領官邸前で鉄道員の父と高校生の娘の二人と会って写真を撮り、住所を聞いて文通が始まり、四度目の印度、カルカッタで家族と再会した。妻は一人で家族と会ったことがある。高校生であった娘は結婚し、その息子が今ではIT関係の技術者としてバンガロールに住んでいる。 父親は日本語を学び、漢字まじりの手紙が来るほどになった。私に英文が書ければ、さらに会話が出来れば、家族を日本に招待していたにちがいない。それほど、彼らは私に好意を寄せて下さった。手紙や写真は全て保管している。 四度目の南印度旅行については、ここでは記さないでおきます。 その翌年、49歳になって、印度は北部のラダック地方と西部になるラージャスタン地方の旅行に参加した。そしてタール砂漠のキャラバン都市、ジャイサルメールに至ったのである。 デリーからマイクロバスで北のレーに向かって出発した。 シュリーナガルではハウスボートに一泊している。 湖畔に停泊している木造の船に数人ずつ乗り込んだ。 船主が授業員を指図しながら食事の用意をしていた。 資料もなく書き出したのであるが、風景が記憶の彼方から浮かび出す。 翌朝、一人で国営物産店へ出かけようとした入り口に、リキシャがいたので彼に声をかけると、エンポリアムは休日である、知人の売店を案内すると言う。印度を五回も来ていると直感を信じるようになっていた、OKバーイと手を振って、クリケット場を斜めに横切って歩いていくと、物産店は開店していた。 入ってみると品物によって部屋が独立しており、担当の店員がいる。印度各地の特産品が展示販売されている。品物を簡単に買えるのは便利であり、今まで見たことのない品物があったりして、生活用品だけでなく美術品もあり、観光客にとっては土産物を買う、印度の特産物が見られるのも便利になっている。 民芸品の博物館にいるような感じがしており、なんとなく製造している地域の人がここに来て販売をしているのかな、と思われた。ここも男性だけが見られ、女性がいない。毛皮のハーフコートやジャケットを買ったのだが、裏地を取り替えるのも男の仕事である。翌朝、ホテルに届けてもらって代金を支払った。紙製の壷を買った。販売人、代金受取人、領収書発行人、包装人、納品者の五人の手を経ている。全員が笑っている、ワークシェアリングなのだろうか。 私たちのマイクロバスはひたすら北へ走った。山裾の広やかな谷間に店舗の並ぶ休憩地点に到着。ジープ、トラックに兵士がたむろしていた。ロバだったかどうかわからないが登山の身なりのグループが乗馬して出発するのをみかけた。トレッキングといって登山ではなくて山麓を野営しながら自然を楽しむものであることを知った。 一本だけの道路沿いに売店が並んでいた。とある雑貨店にぶらりと入った。額縁の鏡があって自分の顔が映っているのをみてぎくっとした。そこにまぎれもなく皺に刻まれた老人の自分がいた。この旅が始まってから誰かと楽しく笑顔の出る会話をしたことがなかったせいか、しかし疲労も緊張もなかった。 シュリナガルからレーにいたる道は、中国との国境へ向かって走る軍用道路である。私たちは岩山の斜面、中腹を削って作った舗装のない道路を這うように北へ向かって進んだ。左側は岩山、右側は絶壁の谷間を見下ろす細い道で、北から寓用トラックが来ると、窪みで軍用車の最後尾の印である旗を掲げた車が通過するまで待機する規則になっていた。 日暮れて暗い道を走って辿り着いたホテル、自家発電の装置があったかどうか、夕食はランプの明かりをたよりに済ませると、割り振られた部屋で倒れ込むようにしてベッドにもぐりこんだ。 このような山岳地帯に馬を飼育している老人や羊飼いの青年に出会った。 谷間に人家が見えない峠で、いつ来るともわからない観光客を待って、線刻した小石を売る二人の少年がいた。おはじきに似た平たい小石を並べていた。 海抜四千メートルの峠にある小さな休憩所でトイレを使った。女性用トイレの板戸が閉まらなくて助け合っていたのを思い出す。樹木のない砂地のなだらかな開けた場所で、遠くに集落が見えた。谷間には水路があり畑があった。ゴンパと呼ばれるチベット教の寺院に向かって歩き出したのであるが、添乗員からゆっくり歩くように注意があり、この地点は富士山より高い地点でることを知った。デリーからの肥満気味のガイドは荒い息を吐きながら座り込んでいた。 この峠にいた幼児、昼間の頭上にある太陽を見上げて、ふらつきながら私の カメラを触りたがった。彼にファインダーを覗かせ、レンズを集落の方向に向けた。初めての体験であったのか、うなり声をあげた。 グループの人たちは山岳写真家の添乗員の指示で、三脚を据えて樹木のない岩山を背景に小さく見える白いゴンパの建物を撮影していた。 数人だけを乗せて走っているジープを見かけた。私たちのマイクロバスはぬかるんだ道をすべらないように、対向車とすれ違う時は細心の注意をはらいながらすれ違った。20人乗りの自動車であったと思う、私は中央の席で右側に座っていた。千尋の谷を見下ろす道路の連続で、帰国してから時々思い出すことがあるのだが、あの道路を走っただけでも旅の価値があった。 高山植物の草花をみた風景の記憶がある。 ラダックのレーは海抜3200メートルの位置にある。バスは夜、到着。外のレストランで食事をするので暗い夜道を歩いた。ふと夜空を見上げると、煌めく星空が近くに見えるほど輝いていた。 私も孤独であったのだろう、ついウィスキーを口にしてしまった。海抜3千2百メートルのラダック地域を忘れていたのだ。翌朝の頭痛が苦しくて、まさに高山病そのものではなかったろうか。ツア−メイトの人がドア越しに話しかけてくれた。ここまできて、これから観光が始まるっていうのに寝ていては、なんのために旅行をしているのかわからない、と。 ツア−メイトの励ましで起き上がり、食事をしてバスに乗った。夕刻までの間、ふらつくこともなく、頭痛に苦しむこともなく、いくつかの有名なゴンパを歩いた。異文化に触れて感覚が陶酔状態にいたようだ。昼食を食べた村の名前を忘れたが、杏をもぎって食べたこと、村人とジュレジュレと挨拶をかわしたことの記憶は鮮明に残っている。杏の大木を揺すって落ちた実を村人は拾った。 小さな農村といっても耕作地もさほど広くはなく、この高地の山間部の僻地では産業とてなく、恵まれた地域でもないのに、土蔵のゴンパの中には色彩豊かな仏像が描かれており、住民の生活のどこから極楽の世界が想像出来るのか、そして精密に描かれ表現される世界の根底にある宗教観はどのようにして形成されたのか、さらに高度な技術と感性豊かな色彩感覚に圧倒されていた。 男女抱擁の歓喜仏ひとつが暗い土蔵の一角から差し込む一条の光によって浮かび上がる、無数の仏が描かれて空間を埋め尽くす。この地の住民の歴史を知らないせいかもわからないが、先進国と称し、称される欧米諸国の文化なんぞ いかほどのものや、と思わせる芳醇なエネルギーを発散していた。 厳寒の地域、恵まれない自然環境に位置すればこそ受け入れ育ててきた住民の感性と智慧の結晶がゴンパの仏像であり、壁画であるのだろう。朝、集落から出発する住民がいる。薪とするために枯れ木を拾いに出かけるのだと言う。彼らの行く手を見渡しても樹木のある山は一つもない。 舗装もされていない道の片側に、さらさらと流れている水の側溝がある。この水は何処から流れてくるのだろう。生活用水であり農業用水となるのだが、水が流れてくる高低差と周辺の自然環境を思うに、遥か彼方から水路側溝の工事がされていること。常時、管理と補修が行き届いていることが推察される。 私が手の届く低木の杏から実をもぎ取って食べた。村人は作物の集荷所にある大木の幹を両手で揺すって、落ちて来た杏の実を拾って食べた。私が食べた実はまだ熟していなかったが、村人の拾って食べた実は十分熟していたのだ。 釈迦の仏教が当初どのようなものであったにせよ、この地の土俗宗教がどのように折り合いをつけて定着したにせよ、つまり変容とは寛容でもあったのであり、そして変遷の歴史があったことは想像に難くはない。彼らの文字も言葉も学ばないでやって来ている平凡な一人の旅人に過ぎない自分を見ている。 レーは都会である。広い直線の道路が走っている。皆さんは連れ立って買い物に出かけていた、私は土産物を買わない人で、モノより人に関心があった。 北インドのレーで南印度のマドライで知り合った青年にばったり出会った。 彼が着ている長袖のTシャツは私が彼にねだられてプレゼントしたものだ。派手な黄色も色黒の彼に似合っていた。ネックの部分にto be together と刺繍がある。このシャツを着ていなければわからなかった。彼は私を覚えていた。 ラダックのレーに到着したのは夜であった。デリーへの出発は朝だ。見えなかった高原の大地を走る。道路の舗装工事をしている地域があり、迂回したバスが窪みにはまり込み、タイヤが空転する。私たちが全員で、押しても引いても車体の前後が地面に食い込むばかりである。 運転手がすれ違う車に頼んで、引き上げてくれる車の手配をした。その車がやってくるのを待つしかない。アスファルト舗装工事の炎と煙が続く。こんなところにと思う土地に小さな数センチの草花をみつける。高山植物である、ツアメイトの女性が根を切らないように土を掘り下げる。根は20センチあった。 同じ軍用道路を通って下りて来たのだが記憶がない。疲れがあって、眠りこけていたのだろう。覚えているのはシュリナガルも近くなった地点と思われるが、木立の森の中に小川のせせらぎがあった。休憩の下車をしたときの安堵とも生還の喜びでもあったのか、樹々の美しいことに感動していた。 デリーに到着したバスは、そのまま西のラージャスタンに向かって出発した。 タール砂漠の中央にある隊商都市ジャイサルメールが最終目的地である。その中間地点にジョドプールがある、深夜に到着したせいで宿泊ホテルが見つからず迷走していた。電力不足で停電しては自家発電するホテルの食堂は薄暗く、何を食べているのかわからない一夜であった。 ひたすら西に向かって走るバス、私たちは山岳地帯の旅を終えて、今は砂漠地帯に突入し、かつてのシルクロードの一つオアシス、キャラバン都市をめざしていた。それは黄砂岩の城塞で囲まれた小さな都市である。東から西へ、西から東へ、駱駝がさまざまな文明と文化を運んだ歴史がある。その地域を支配した藩主マハラジャが住む宮殿を頂上にして、城下町が出来た。交易都市は財を蓄積し美しい町が誕生した。 ジョドプールからの交通として列車もバスもある。ここが終着駅なのだ。 パキスタンの国境まで100キロメートル。今はかつての栄耀栄華はない。辺境の人口4万人の田舎町に過ぎない。砂漠で原子爆弾の地下実験をしている。 360度地平線が眺められ、夕日が沈んで行く時、城塞が黄金色に輝く。 バスは夕日の沈む頃、町に到着した。街路を歩く若い女性のサリー姿が目にとまる。小脇に抱えた数冊の図書が、この町の知性を感じさせ、姿勢よく歩く姿にしゃれたセンスの良さを覚えた。翌朝、池に水を汲みに行く数人の若い母親に出会う。子どもを右手に、水かめを頭に載せて左手でささえている。このバランスの良さ、はなやかな会話が楽しそうで、笑いがはじける。なれているのかどうか、私のカメラにも動じることなく、すたすたと歩いて行く。 車に野菜を並べた露天商の男、額に印をつけた青年の群れ、石造の豪邸が並ぶ、繊細な彫刻、浮き彫り、透かし彫りが見られるバルコニーや出窓。城壁の中の宮殿の一部が解体された時に運び出し、自宅の玄関に配置した円柱。ワンピースを着た少女。路地をすり抜けるように足早に歩く女性の、身に纏ったサリーの幾何学模様。車が入ってこないから静かである。 道端の左右には小さな水路がある、花が咲いている。ツアーメイトの女性が一眼レフのカメラで写真を撮る。私は人間を撮る、彼女は花を撮る。この人はデリーから参加されている、手慣れたカメラ操作に見とれていた、やはり、このグループは写真好きのメンバーによるツアーだった。 狭い坂道の石塀から数人の女子中学生が出て来た。彼女たちは三つ編みの髪を赤色のリボンで結んでいた。彼女たちは外国からの旅行者を見慣れているのだろう、無表情な顔、瞳、無口。私も暑さに疲れていたので、声をかけなかった。一人だけカメラ目線の少女がいるワンショットの写真が残っている。 この写真をジャイサルメールの思い出として今も持っている。 この時、私は49歳であった。11年後の60歳、今から13年前になるが、この地を訪ねて、定かでない記憶をたよりに学校の教員に会った。写真を見せたが少女たちを知る人はいなかった。ジャイナ教寺院の向かいは何処だったか。 この地から西へ40キロメートルにサムと呼ばれる砂丘があって、駱駝に乗って登ることができる。夕陽の沈む頃にバスで砂丘へ出かけた。集落など見かけなかったのに、数頭の駱駝を連れた男たちが集まってきた。砂丘に登る駱駝、砂丘に点在する腹這いの駱駝を写真に撮った。 この二枚の写真に漂うけだるさがジャイサルメールのもつ魅力でもあった。 この町にやって来る旅行者の大半がフランス人であると聞いた。彼らは避暑に山や海へも出かけるだろうが、このような砂漠の僻地へ来る人種でもある。 たしかにキャメル・サファリや駱駝の旅も魅力がある時代でもあった。この町の女性が身にするサリーのデザインは現代感覚のセンスがあると私は感じた。 異国人が交流する地としての伝統がある、異国人を受け入れているようだった。漠然と、還暦になれば、この地に永住するのも悪くない、と思った。私の事務所の壁に、ジャイサルメールの写真パネル二枚をかけた。二人の息子たちが大学を卒業して就職するのを待って、56歳の私は創価大学法学部の通信教育に入学した。 ラダックへの旅は夏期でなければバスが走らない。デリーからレーに飛行機で飛んでも冬の観光には不向きな山岳地帯である。さらに海抜3200メートルへ一気に駆け上がると、高山病に罹りやすいと言われていた。不便でも自動車で軍用道路を走るのが適しているようだった。夏場でも雪渓を見ることが出来る地帯でもある。 それが一気に灼熱のタール砂漠を走るラージャスタンの旅である。気温は40度から50度とガイドブックに記されている。宿泊は政府の観光バンガローであった。壁に取り付けられたエアコンは冷却する機能に欠けていた。さらに天井には大きなプロペラ扇風機の羽がゆっくりと回っている。 吹き出す汗を拭いもせずベッドのシーツに疲労で眠りに落ちた。 帰途のジョドプールでは、マハラジャの宮殿をホテルにした絢爛豪華な建物に宿泊した。各地から運ばせた大理石がふんだんに使用され、外観もさることながら、玄関ホールの装飾には圧倒された。宿泊する客室の設備も近代的に改装済みであったが、あくまでもパレスであって、ホテルではなかった。 疲れ果てた私を目覚めさせたのは、奇怪な鳴き声である。屋上にも庭にも 茶褐色の大きな鳥がいた、国鳥である孔雀である。砂漠への道の灌木から出て来た雄の孔雀が美しい羽を広げていたのを見かけた。 ウダイプールの湖上に浮かぶ宮殿ホテル、レイクパレスホテルへはフェリーボートがシャトル運航している。遠くから見ると白亜の離宮は美しいが、屋上はカラスや水鳥のねぐらになっているのか、レストランからの廃棄物を餌にしているのか糞にまみれている。 湖上の乗船場にライトがなく、月と星の光で照らされた宮殿のモザイク壁画を見ていた。一人の子どもが近寄ってくる、手を突き出した。 「わたしが考える市民参加のルールや仕組みづくり」
西脇市には8地区の行政区があり、それぞれの地域の特性と歴史をふまえ、 伝統文化行事、新しいイベントを通じて、コミュニティを形成し今日がある。 さまざまな課題も抱えているが、区長を中心としながら、そのリーダーシップのもと住民が協力しあって、いろいろな課題に取り組み参画と恊働による「まちづくり」がなされてきた。個性のある8地区が協同事業を行うことは、かなり困難が予測される。イベントひとつ行うにしても、その中心地に偏る傾向があるゆえに、不満が生じることもあるだろう。それを解決していくには知恵と工夫とさらに計画性のある、バランスをとる話し合いのルールが必要となる。 私は西脇区の町民で「まちづくり委員会」に参加している。この委員会は各町内会長、副会長および町から推薦の委員も参加、さらに一般公募で参加したメンバーで構成されている。町内会長の任期が終えても参加を続けている委員もあることは喜ばしいことで、数年前に計画された事業を実践する今日である。 常に3部会の事業に区民の参加を呼びかけているが、応募者は少ない。それでも委員会構成の男女比率がほぼ近いこと、年齢も三十歳代から七十歳代までの 老若男女が月1回の委員会では、活気のある発言、提案がある。目下、童子山の公園整備と歴史遺産の資料づくりなど、活動がめざましい。 これらを要約すると「まちづくり」とは住民の「ふるさと愛」が根底にあり、「安心・安全・やさしく美しい」まちづくりを願う心が伝わってくる。毎年、西脇小学校の生徒に夏休み課題として「あいさつ運動」のポスターを依頼し、コミセンまつりに展示公開後、各町内に配布し各所に展示している活動など、 下校時に「見守り隊」が声をかけるなども、地域社会教育と言えるだろう。 上記のような活動報告を8地区が交換しながら、さらに各地区が住み良いまちづくりをすることが、西脇市という「ふるさと」を愛し、住み良い明るく楽しい心の通う町を創る原動力となるに違いない。あらゆる情報の公開が信頼を生み、市民の「参画と恊働」のまちづくりがなされる、と信ずる。
西脇市住生活基本計画案のパブリックコメント 2010、1、19
西脇市は近隣の市町と比較して、インフラ整備は良いと思われる。例えば、 学校数、幼稚園、保育所の数も多い。高等学校は3校あるのは恵まれている。 生活用品ショッピングセンターも十分である。医療関係も良いと言えよう。 課題の住宅であるが、公営賃貸住宅は家賃の安いことで、入居希望者は多く、空き室待ちとの話を耳にする。と同時に、老朽化していることを指摘して困惑しているのが現状ではないだろうか。そこで、民間の賃貸住宅(アパート)であるが、家賃が高い。優良企業、公務員は住宅手当が支給されるので、3DKなど良質のアパートに入居可能であろう。新婚生活を始める夫婦が共働きで借りられるとしても、駐車場2台を必要とする。さらに出産となると収入源も低下し生活が苦しくなる。子どもが産めない、つまり少子化現象である。 高齢化社会と言われる現代、老人の一人暮らしが増えている。年金が高額であれば、生活も介護も不安がない。しかし、実態はどうなのだろうか、賃貸住宅で家賃の支払いが高負担になって、生活困窮者となることが推察される。 教育費の支出がある家族にとっても、生活費における家賃負担は厳しい。 このように公営にしろ、民間にしても賃貸住宅の入居者にとっては、家賃の支払いが問題なのである。市内の民間賃貸住宅の空室率が高いと聞く。これは 需要と供給のアンバランスに原因があるとともに、市民の所得が低いから借りられないのである。夫婦が働きに出る、子どもを保育所に預ける。学童教育に 影響が出ることだろう、さらに老人が同居していると家族崩壊につながる危険性がある。たとえば、老人だけをアパートに住まわせて同居しなくなる。病人となると病院か老人ホームで看護、介護され、やがて一人になって死んで行く。 西脇市内の民間賃貸住宅の間取り、敷金家賃などの賃貸条件と会わせて、入居状況を調査されたい。家族の構成、家賃の延滞の有無、トラブルの有無と原因。貸主側の要望事項と借主側からの願望事項。この借主は住民登録をしているかどうか。住民税を支払っているかどうか。勤務先は何処か、市内市外。 一戸建ての家屋で老朽化した建物の管理調査をしていただきたい。空き家も含めて、他人が無断で出入りの有無、屋根瓦の脱落、火災の発生の懸念がある。 住人はどこへ行ったのか、所有者は誰なのか、管理人を把握できているか。 西脇市の固定資産評価額は高いのではないか。納税延滞の有無を知りたい。 売却したいが価格の値下がりで売れない、収入が低いので納税出来ないでいる。 広い住宅に収入の少ない老人だけが住んでいる町になるかも知れない。
わが町のシンガーソングライター
藤原祐輔さんの歌を紹介します。 [「 」] 作詞・作曲=藤原佑輔 何をする訳でも無いけど君と一緒に「居れる事」それが僕は一番嬉しい。 日々を重ねても最初の気持ちでいられる。だから僕は素直になれるんだ。 あれからの僕等は少しのズレも無くて あれからの僕等はいつでも繋がっている 君といつまでもこうしていたいと星に願った 終わる事の無い物語を二人で作ろう。 懐かしい風に二人は優しく包まれて、たまに降る雨も素直に二人で受け止めた。 二人の間の時間がこのまま永遠に、止まっていたらと僕は空につぶやいた。 気が付けば君と僕は自然に寄り添って 気が付けば君は僕に大事な物をくれた いつまでも君が僕の中で輝いてたら その笑顔だけで僕は勇気付けられる 目をつむれば君がいて目を開けても君がいる そんな事が永遠に続いたら良いのにな ずっと 君といつまでもこうしていたいと星に願った 終わる事の無い物語を二人で作ろう。 いつまでも君を僕の胸の中で抱きしめていたい 君が僕の中で一番の宝物 君が僕の中で一番の宝物 http://www.fujiwarayusuke.com/ CDも2枚あります。ライブを聴くとファンになります。12月27日カナートで。 彼と私の出会いは、いつか書きます。好青年です、いい友人を持っています。
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